「採用できる」と「定着する」は別の問題
ベトナム進出企業の経営者から最も多く聞かれる悩みの一つが、人材です。「人は採れるが、すぐに辞めてしまう」「育てた頃に競合に引き抜かれる」「給料を上げても定着しない」——こうした声は、ベトナムの労働市場の特性を物語っています。日本企業がベトナムで成功するには、採用(リクルートメント)と定着(リテンション)を別々の課題として、しかし一本の人材戦略の中で設計する必要があります。
ベトナムの労働市場は、若く豊富な労働力を抱える一方で、経済成長に伴う賃金の上昇、転職への抵抗感の低さ、都市部での人材獲得競争の激化という特徴を持ちます。とくに、語学力やマネジメント能力を備えたミドル層・専門人材は慢性的に不足しており、獲得も維持も容易ではありません。「人件費が安い」というイメージだけで進出すると、採用難と高い離職率に直面します。人件費の実態はベトナムの人件費の実態で詳述しています。
本稿では、ベトナムでの人材の採用から定着までを、実務目線で体系的に解説します。採用チャネルの使い分け、選考の勘所、そして離職を防ぐリテンション施策を、ベトナム固有の事情とともに整理します。
ベトナムの労働市場を理解する
若い労働力と賃金上昇のトレンド
ベトナムは人口の中央値が若く、毎年多くの新卒が労働市場に入ってきます。一方で、経済成長と物価上昇を背景に賃金は年々上昇しており、「安価な労働力」という前提は薄れつつあります。最低賃金も地域別に定期的に改定されます。
転職が一般的な文化
ベトナムでは、より良い条件を求めて転職することが一般的で、日本のような長期雇用・終身雇用の前提は通用しません。とくに若年層は、給与・成長機会・職場環境を比較して機動的に職場を変えます。これは「裏切り」ではなく市場の常識であり、企業側がこの前提に立った人材戦略を組む必要があります。
ミドル・専門人材の不足
最も獲得が難しいのが、日本語や英語ができ、マネジメント経験や専門スキルを持つミドル層です。この層は引く手あまたで、報酬相場も上昇しています。優秀なミドル層をいかに採用し、引き留めるかが、現地経営の成否を分けます。とくに日本語人材は、日系企業同士で奪い合いになりやすく、語学手当や明確なキャリアパスといった上乗せの工夫がなければ確保が難しくなっています。
地域による労働市場の違い
ホーチミンを中心とする南部とハノイを中心とする北部では、労働市場の性格が異なります。南部は商業・サービス・消費財系の人材が厚く転職も活発、北部は製造業・エンジニアリング系の集積があります。工業団地が集中する地域では、近隣の他社との人材獲得競争が激しく、賃金や福利厚生の地域相場を把握したうえで待遇を設計することが重要です。
採用(リクルートメント)の実務
採用チャネルの使い分け
ベトナムの採用チャネルには、求人サイト、人材紹介会社(ヘッドハンティング)、大学との連携、社員紹介(リファラル)、SNSなどがあります。職種・階層によって有効なチャネルは異なり、現場のワーカーは求人サイトや紹介、専門職・管理職はヘッドハンティングやリファラルが有効です。

主な採用チャネルの特性を整理すると、次のように使い分けられます。
チャネル | 適した階層 | 強み | 留意点 |
|---|---|---|---|
求人サイト | ワーカー・若手 | 母集団が大きい | 応募の質にばらつき |
人材紹介・HH | 管理職・専門職 | 即戦力に到達 | 手数料が高い |
リファラル | 全階層 | 定着率が高い | 同質化に注意 |
大学連携 | 新卒・若手 | 育成前提で確保 | 育成コストと時間 |
SNS・自社発信 | 若年層全般 | ブランド訴求 | 運用の継続が要 |
リファラル採用の威力
ベトナムでは、信頼できる人のつてを通じた採用(リファラル)が、定着率の高い人材を獲得する有効な手段です。紹介された人材は、職場の実態を理解したうえで入社するため、ミスマッチが起きにくく、コミュニティのつながりが定着を後押しします。
選考で見極めるべきこと
スキルや経歴に加え、定着の意思、チームへの適合、そして誇張のない自己申告かを見極めます。ベトナムでは経歴や資格の自己申告と実態が食い違うこともあるため、リファレンスチェック(前職への照会)や実技確認が有効です。採用は「採って終わり」ではなく、定着まで見据えた見極めが重要です。
定着(リテンション)の実務
採用以上に難しいのが定着です。せっかく採用・育成した人材が辞めれば、採用コストも教育投資も水泡に帰します。リテンションは、報酬という土台の上に、複数の要素を積み上げて初めて機能します。

土台:競争力ある報酬・福利厚生
定着の前提は、市場相場に見合った報酬と福利厚生です。相場を下回る待遇では、どれだけ理念を語っても人は流出します。報酬は固定給だけでなく、社会保険、各種手当、賞与、健康保険などのトータルで設計します。ただし、報酬は「不満を防ぐ」要素であって、それだけで定着を生むわけではありません。
上司・職場環境
ベトナムでも「人は会社を辞めるのではなく、上司から去る」という法則が当てはまります。直属の上司との関係、公平な評価、働きやすい職場環境が、定着の重要な要素です。日本人駐在員のマネジメントスタイルが現地スタッフと合わず、離職を招くケースは少なくありません。
キャリアと成長機会
ベトナムの若い人材は、成長とキャリアアップに強い関心を持ちます。研修、昇進の道筋、責任ある仕事の付与といった成長機会の提示が、引き留めに効きます。「この会社にいれば成長できる」という実感が、転職の誘惑を抑えます。日本本社での研修機会や、現地法人での管理職登用といった具体的なキャリアパスを示すことは、優秀な人材にとって他社との差別化になります。逆に、何年いても同じ仕事のままでは、成長意欲の高い人材ほど早期に離れていきます。
離職コストを可視化する
離職は、採用費・教育投資の損失にとどまらず、引き継ぎの混乱、残った社員の負担増、ノウハウの流出、顧客対応の質の低下といった見えにくいコストを伴います。離職率を「仕方ないもの」と放置せず、その実コストを可視化することで、リテンション施策への投資が正当化され、経営課題として優先順位が上がります。一人の優秀な人材の離職が、想像以上に大きな損失であることを定量的に捉えることが、対策の出発点です。
理念・帰属意識
最上位の定着要因が、会社の理念への共感と帰属意識です。自分の仕事が意味を持ち、組織の一員として尊重されているという実感は、報酬や条件を超えて人を引き留めます。これは一朝一夕には築けず、日々の経営姿勢の積み重ねで醸成されます。
採用・定着で日本企業がつまずくポイント
日本のやり方をそのまま持ち込む
年功序列的な評価、曖昧な役割定義、長時間労働の前提などをそのまま持ち込むと、ベトナムの人材には響かず、離職を招きます。現地の価値観に合わせたマネジメントへの適応が必要です。
駐在員と現地スタッフの断絶
意思決定が日本人駐在員に偏り、現地スタッフが「使われるだけ」と感じると、エンゲージメントが下がります。権限委譲とローカル人材の登用が、組織の安定につながります。優秀な現地人材に責任あるポジションと裁量を与え、経営の意思決定に参画させることは、定着と組織能力の向上の双方に効きます。駐在員はいずれ交代するため、現地人材が中核を担える組織をつくることが、長期的な事業の安定につながります。
コミュニケーションと相互理解
言語や商習慣の違いから生じる誤解は、現場の不満や離職の温床になります。指示が一方通行にならないよう、現地スタッフの声を吸い上げる仕組みや、双方向のコミュニケーションの場を設けることが、信頼関係の構築に役立ちます。「察してほしい」という日本的な期待は通用しにくく、期待や評価基準を言葉で明確に伝えることが重要です。
評価・昇給の不透明さ
何をすれば評価され、昇給・昇進するのかが不透明だと、優秀な人材ほど見切りをつけます。明確で公平な評価制度の整備が、定着の基盤です。評価基準を文書化し、定期的なフィードバック面談を通じて期待と現状を共有することで、社員は自分の立ち位置と成長の方向を理解でき、納得感が生まれます。
労務コンプライアンスの軽視
労働契約、社会保険、労働時間、解雇手続きといった労務関連の法令遵守は、定着以前の前提条件です。ベトナムの労働法は労働者保護の色彩が強く、契約や手続きの不備は紛争や当局の指摘につながります。適正な労務管理は、社員の信頼を得る基盤であると同時に、企業のリスク管理そのものです。
M&A・PMIにおける人材リスク
買収(M&A)でベトナム企業を取得する場合、人材の定着はPMI(買収後統合)の成否に直結します。キーパーソンの離反は、買収価格に織り込んだシナジーを崩します。M&A後の人事・組織リスクの実務は、ベトナムM&A:PMI失敗を防ぐ人事・組織リスクで詳しく扱っています。子会社のガバナンスと不正防止の観点はベトナム子会社のガバナンスも参照してください。
Solara & Coの人材戦略支援
ベトナムでの人材は、「採用できる」と「定着する」がまったく別の課題です。若く流動的な労働市場の特性を理解し、職種・階層に応じた採用チャネルを使い分け、報酬という土台の上に、上司・職場環境、成長機会、理念・帰属意識を積み上げて初めて、人材は定着します。採用と定着を分断せず、一本の人材戦略として設計することが、現地経営の安定の条件です。
Solara & Coは、日越双方のネットワークと現地経営の知見を活かし、人材戦略の設計から、採用チャネルの選定・実行支援、評価・報酬制度の設計、リテンション施策、そしてM&A時の人材リスク評価までを一貫して支援します。「採っても辞める」「育てたら引き抜かれる」という悪循環を断ち切るために、まずは自社の人材課題を一緒に整理する一歩から、ご支援します。



